はじめに
最近目が離せない注目の漫画・アニメ、「葬送のフリーレン」あるいは「ダンジョン飯」。ちょっと前には「江戸前エルフ」なんてのもあった。どの作品にも共通しているのがエルフが出てくること。エルフの物語において果たす役割は大きい。それは魔法を使って活躍するからというだけではない。エルフが物語上で果たす機能を考えた時、エルフは、われわれに対して生きることについての問いをもたらす存在ですらある、とも考えれらるのではないだろうか。
今回は「エルフ」についてその存在意義と、そこから考えられる物語の意義について考えていければと思う。
エルフとは?
そもそもエルフとはどんな存在だろうか。エルフはゲルマン神話や北欧の民話などに起源を持つそうだ。現在、我々がエルフをよく目にするのはサブカルチャーの中でではないだろうか。有名なところだとJ・R・R・トールキンの「指輪物語」やRPG等でもおなじみの存在で、もはやファンタジーの世界には欠くことのできない要素になっている感じもある。
エルフのと特徴といえば、一般的に人間よりも長寿で魔法や技術に長け、美しく、自然とのつながりが深く森林に住んでいるところだ。そして何よりもその耳が特徴的。長くとんがった耳を持っていたら、だいたいエルフだと疑ってかかっても、そう間違えることはないのではないだろうか。
エルフが浮き彫りにするもの
エルフが物語に登場することによってもたらされるものは、人間の相対的な耳の短さだけではない。エルフという長寿の存在により人間の相対的「人生の短さ」が浮き彫りになる。
エルフによって物語にもたらされる悠久の視点は人間の生き方への相対化をもたらす。それは「どうせすぐに死んでしまうのに、なぜそんなことにこだわるの?」という問いかけであったりする。問いは人間だけにとどまらず、人が執着するほとんどのものに向けられ、財産や名声、一族や国といったものへも向けられ得る。確かに、この世の中に永続するのもなんて想像するのさえ難しい。すべてはつかの間のもの、その為に必死になることに意味はあるのだろうか。最早これは仏教的「諸行無常」の世界観かもしれない。事実この手の話は目新しいモノではない。
「50億年後にば太陽も滅びる。全てが終わりを迎えるなら、今どんなことをしたって、全ては無駄。」と。現代においてもこういった言説は身近なところにも転がっているのではないだろうか。
エルフという存在を持ち込むことで、私たちは人生について「なんのために生きるのだろうか?」という普遍的な問いを、物語にもたらすことができる。
エルフが背負うモノ
エルフは長寿ゆえに人間とは異なる視点や価値観を持ちうる存在である。彼らの存在が「視点が変われば価値も変わる」ということを体現し、物語に相対化の視点を持ち込む。それは対峙するものの生き方や思想や価値観に対して「それは或る視点に基づく一面的なものでは?」ということ考えさせるきっかけになる。そのような疑念を抱いたものは、例えば、心の奥で本当は何かしら絶対的なものを信じつつ表面上は物分かり良さそうに相対主義を支持できるような、良くも悪くも「適当さ」を持ち合わせているなら別だが、そうではない場合、その疑念との挌闘が避けられなくはならないだろうか。
「これは本当に意味があるのだろうか?」「全ては無意味なのではないだろうか?」このような考えはどうやったら乗り越えることができるのだろうか。ここで乗り越える対象となっている「全ては無意味」という考えを、ここでは「ニヒリズム」と呼んでおきたい。
ニヒリズムはエルフによって私たちに投げかけられるだけでなく、エルフ自身も背負わざるを得ないものではないだろうか。「もしかしたら、全部無意味なのかもしれない」そんな疑念にどう対処しているのか、どうやってニヒリズムを乗り越えているのか。エルフはニヒリズムに対する回答を持っているのだろうか。もし、物語の中でエルフがニヒリズムをもたらし、自らもそれに陥り、その上でもなお生を肯定的に生きている様子を描くことができていれば、ニヒリズムとの闘い、あるいはその克服についてまでも、その物語では語りえるのではないだろうか。
ニヒリズム
ニヒリズムは何も新しい問題ではない。一説には近代初期の科学革命によって、世界の脱価値化が起こったという話もある。それまで、世界には秩序があり存在には目的や意義もあった。それが単なる物資、価値とは切り離された科学の対象になってしまったという。まとまりをもった全体的な世界観が信じにくい時代が来てしまったということだろう。もちろん、それ以前もやはり信仰の問題として、不条理な世界をどう受け入れるか、など人類が生きている限り付きまとってきた問題なのだと思う。しかし、それは問題なのかどうか、ということについても論じられる必要のあることかもしれない。
単純に、世界の無意味さという認識を放棄してしまうことはカミュの言うように「哲学的上の自殺」ですらあるかもしれない。あるいは、なにもかも無意味かもしれないのだから、「命がけ」で「死ぬ気」になるなど「自分を追い詰めてまでやらなくてもいい」という気楽さをもたらしてくれるかもしれない。または、三島由紀夫の言うように、人間は自分のためだけに生きられるほど強くなく、何か自分を越えた価値が必要になる、ということだってあるのかもしれない。はたまた、精神医学的に言えばニヒリズムは離人体験や疎隔感といった他者や世界との情緒的交流が失われたことによる症状の帰結なのかもしれない。フランクルの様にニヒリズムについて正面から取り組もうとした人もいた。
そしてそれは、漫画やアニメでも。例えば人類が滅びゆくのにヒーローとして闘う理由はどこにあるのかを問い続ける山口貴也の「エクゾスカル零」。最近の作品では諌山創の「進撃の巨人」。終わりの見えない戦争に疲れ果て、生きることの意味を問いだす、ジークとアルミン。「このために生まれてきたんじゃないか」「また生まれてもいいかもなって」思える「なんの意味もない」、なんでもない一瞬。それは、仲間と一緒に丘の木に向かってかけっこしている時、雨の日家の中で本を読んでる時、キャッチボールをしている時などなど。そして、「葬送のフリーレン」では、エルフからしたら100分の1にも満たないほんの短い旅での思い出。
漫画やアニメの注目すべきところは、具体的な回答を登場人物達が出しているところではないだろうか。そしてそこに、ニヒリズムを乗り越えるための一つの手がかりがあるようにも思える。
物語
漫画やアニメは物語である。小説や映画もそうだ。物語は体験を伝え得るものではないだろうか。同じ事件や出来事に遭遇しても、体験した個人によってその感じ方や、意味付けは異なる。そこに至った体験の積み重ね、文脈が違うのだから当然だ。さらに同じ自分の体験でも語った時の状態によってその意味付けが変化し物語も変化するといったことも起きてくる。視点の数だけ物語は存在するのかもしれない。
物語たちがニヒリズムに対する回答を表現していると考えた時、物語が体験的世界を描けるからこそそういったことが可能になっているのではないかと考えられはしないだろうか。ニヒリズム、つまり「人生は無意味か」といった問いへの答えは、論理的に論証したり、一般に当てはまる回答を出すことはそもそも不可能なのではないだろうか。それは、各自が回答を出す他ないばかりか、「丘の木にむかってかけっこしている時」であったり「無意味に繰り返すキャッチボール」「くだらない人生のほんの一部でしかない仲間との旅」といったそれぞれが体験的に感じる他ないものなのかもしれない。そして、何とか形にして表現しようとすれば、物語として描くしかないのかもしれない、それは漫画・アニメ・映画・小説、そして自分の人生といった物語として。
まとめ
長くなってしまったが、言いたかったことはシンプルだ。要は、「人間や人間が必死になったり執着するものなんて、ちっぽけなものに過ぎない」という考え方がある。そしてまず一つ目に、そういう視点を表現するのにエルフというものが非常に有用なこと。次に、そういう視点をどんどん推し進めていった先に、「すべては無意味だ」というある種のニヒリズムに到達することがあり得るということ。ニヒリズムまで行きついた場合、そういう思想を抱きながら肯定的に生きることはいかにして可能かということが問題になり得ること。物語という形で出された回答を眺め、物語という形式、その内容になる体験が人生の意味についての一つの解答たり得る可能性について考えてみた、というのが今回の話だったということだ。
「エルフ論」と言いつつエルフは入り口にすぎず、本当はニヒリズムについての話でした。さらに、実は長命であったり人間の価値観の相対化をしてくれるものであればなんでもよく、エルフである必然性すらなかったというオチですが、私がエルフにはまってしまったのでこうなってしまいました。
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